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お彼岸

「お彼岸なのでお墓参りに行こう」ということで家を出てお墓に向かった。
我が家のお墓は歩いて数分。
「お線香がない~」
「コンビニに寄ろう」
お墓のそばにセブンイレブンがあるのでそこでお墓参りセットを購入。
さすがにコンビニは便利である。

「ところでお彼岸ってそもそも何なの?」
「どうしてお彼岸にはお墓参りするの?」
そういう素朴な疑問に明確に答えられない。
「家に帰って調べよう」

彼岸の仏事は浄土思想に由来する。
浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられていた(西方浄土ともいう)。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。
元々は中国から伝わったもので、心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)だが、日本に伝来後いつの間にか法要を営み祖先を祀る行事へと変化した。

Wikipediaより

「彼岸=浄土」で、極楽浄土は西方にあると言われていて、太陽が真西に沈む春分・秋分の日に死んで彼岸に行ったご先祖さまのことを思うというわけである。

しかしながら、仏教発祥の地インドには「お彼岸」はないらしい。
「お彼岸」は日本独特のもので、中国にも東南アジアにもない習慣だと瀬戸内寂聴さんは述べておられる。(痛快!寂聴仏教塾より)

そもそも仏教が伝来する前から、日本人にとって春分の日や秋分の日は特別な日だった。
農業が生活や産業の中心だった日本人にとって、天候は何よりも重要で、中でも太陽には特別な関心を抱いていたのである。
真東からのぼり真西に沈むという太陽にとって特別な日を、日本人は古くからお祀りしていたという。
つまり、そもそもは仏教行事ではなく、農業のための神事であったのだ。
そこに西方浄土という考えが日本に入ってきて、農業神事が仏教の行事に変わり、浄土におられるご先祖を思い、供養する日に変わったというのが真相なのだ。

寂聴さんのご説明をかいつまむとそういうわけなんだけれども、これに続く寂聴さんのことばがいいなあと思った。

私たちがこの世に生まれることができたのは、ご先祖のおかげです。
ところが、人間というのは図々しいから、何でも自分の力と才能でやっていると、つい思ってしまう。
自分がこの世に生を受けたのはご先祖のおかげだし、毎日暮らしていけるのは家族や周りの人のおかげです。
本当なら、そのことを毎日感謝すべきなのだけれども、凡夫ですからそんなことはなかなかできませんね。
だったら、せめて年に2回ぐらいはご先祖さまに手を合わせて感謝するくらいはしたほうがいい。
幸い、春分・秋分のころは季節も穏やかだから、お墓詣りにも行きやすい。
だから、「お彼岸なんて、本場のインドではやらないんだよ」なんて、知ったかぶりは言わないで、ちょっとでもいい、お墓詣りをしなくてもいいから、少しでもご先祖さまを思う。
感謝する。
年にたった2回のことですから、そうしてほしいと思います。


そうだなあ、と思った。
ぼくなんか、今回こうやって歯科医院をあの場所で開業できるのも、ご先祖さまのおかげだとつくづく思う。
地元の人間として、地域に根ざした活動をすることがぼくの役目だと思う。
確かにお墓に来ると、そういう思いが強くなる。

父や祖父が生きていたら今のぼくをどんなふうに見てくれるだろう。
墓に行って手を合わせると思う。
「おとうさんやおじいちゃんや、ご先祖さまのおかげです。これからも見守っててください」

子どもたちにもお墓は身近なものとなっている。
子どもたちだけで歩いて家とお墓を行き来できる。
今日もお墓についてから子どもたちがトイレに行きたいと言い出して、そのために2人で家に帰ってまたお墓に戻ってきた。
その間、ぼくと妻は墓からの眺めを楽しんだ。
「ここから見える範囲の人たちがこれからぼくらの歯科医院に来てくれる患者さんなんやなあ」
墓は斜面にあって眺めがよく、海や橋や淡路島を見渡せる。

「それにしても、お墓が近くてよかったねえ」
お彼岸くらいは、というのももちろんだけれど、お墓が近いことが一番先祖を思い出させてくれるかもしれない。

by omori-sh | 2006-09-23 15:13 | event