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ぼくの夢って何だろう

41歳、厄年。
息子に「お前の夢は何だ?」と聞くと「カレー屋」と答える。
親友の夢と同じだ。

親友はぼくと同い年。
「オレの将来の夢はカレー屋やから」と言う。
じゃあぼくの将来の夢は何だろう。

息子の将来の夢って、何歳くらいをイメージしているだろう。
息子は9歳。
「35歳くらいかな」

ぼくが子どもの頃の夢は何だっただろう。
小学校の卒業アルバムには「小学校の先生」とある。
今、バレーボールクラブで子どもたちの指導したりPTA会長やったりして小学校を身近に感じていて、その夢に少しだけ近づいた気がするけど、それは叶わぬ夢だった。

中学を卒業するときは何だっただろう。
たぶんそこそこの大学を出て、そこそこの会社に勤めるサラリーマンだったんじゃないかな。
よく覚えていない。

高校時代、大学進学を考えるので職業をはっきり意識する。
そこで歯学部を選択した。
職業訓練校みたいなところ。

それで歯医者になった。
それは高校3年のぼくの将来の夢だったことに違いない。
だから、職業という点でぼくは自分の夢を叶えたのかもしれない。

大学時代は職業が決まってしまっていることに不自由さを感じた時期があった。
それがだんだんそんなこと言ってられないって感じになって、歯医者になることを受け入れた。
でも歯医者といってもいろいろあって、どんな歯医者になるか、という難題に直面した。

歯医者としてのぼくの夢はそこそこの腕を持ったホームドクター。
地域に根ざした家庭医。
勤務医しながら自分の進みたい道をはっきりさせていった。

開業するとき、その道に進んだ。
生まれ育った土地で、小さな歯科医院をつくった。
歯医者になった頃のイメージに近い歯医者になった。

その前に結婚して、子どもが生まれた。
女の子と男の子。
目一杯借金してマイホームを建てた。

若い頃描いていた夢がちょっとずつ現実のものになっていったように思える。
壮大な夢ではなく、年相応の普通の夢。
夢って、そんなものだとも思う。

夢は現実になった瞬間に消えてなくなり、次のまだ見ぬものに姿を変える。
次から次へと、消えては現れる。
手に入れたと思ったらするりとまた遠のく。
姿を変えて。

夢って、欲望なんだよな。
欲がなくなれば、夢はなくなるかもしれない。

ぼくは今何を求めているんだろう。

41歳って、人生の折り返しは過ぎている。
ぼくについていえば、職業はきっと変わらない。
それはちょっと不本意かもしれない。

でもあと20年くらいは今の職業のままいくだろう。
それは計画だ。
事業として、その計画はいまのところそこそこ順調。

今のぼくの夢は、幸せに暮らす、というような漠然としたものだろうか。

いまを生きる、というのは夢だろうか。
それはどちらかというと現実だよな。
今日を精一杯、というのは。

未来はわからないからおもしろい。
でもビジョンは必要だ。
歯医者として、父として、夫としてのビジョン。

ビジョンと夢は同義?

まあどっちでもいいか。
ビジョンは具体的に持っていたい。
歯医者としてのビジョンは、それなりにあるつもり。
不確かではあるけど、それはいいだろう。

その次が、夢かな。

その次は、まだ見えない。
ってことは、夢ってのは、見えないものなのかもしれない。
ただ漠然としているぼくの夢。

夢なんかなくても、幸せに暮らすことはできるな。
でも、何か夢があったほうが、おもしろそうな気はする。
ちょっと変わった夢を描いてみようか。
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by omori-sh | 2011-05-19 00:27 | idea

怒りの正体

なんで自分はすぐにイライラするんだろう。
carlに対して怒ってみたり、chuを急かしてみたり、kasuに計算もっと練習しろって厳しく言ってみたり。
怒るんじゃなくて、冷静に叱るって難しい。

いつの頃からか、怒らずに生活したいなあ、なんて思ってはいるけれど、怒りという感情はなくなることはない。
怒りが生じるたびにどないしてやり過ごそうかと四苦八苦している。
心が狭いなあ、人ができてないなあと思う。

「人はなぜ怒るのか 藤井雅子著」という本を見つけたのでパラパラめくってみた。

怒りが生じているときは必ず「~べき」「~なければならない」思考が無意識のうちに起こっているのだから、それを修正すれば自分で怒りを減らすことができる

「~べき」思考というのは、ものごとに対して100%を期待する完全志向でもあり、こうした考え方のくせがあると、本人もまわりの人も苦しくなる

相手に100%を求めるということは、相手に対する甘えだ

期待値が高すぎると現実とのズレが生じやすくなって、ズレの分だけ怒りが大きくなる

求めないというのはすごく大切なことだと思う。
ついまわりの人に求めてしまって、期待通りにいかないと不平不満を抱く。
求めなければいいのに、求めてしまうがために、がっかりし、場合によっては怒りが生じる。

怒りの原因は、ひと言で言うなら「不一致」で、怒りとは「不一致による違和感」であると筆者は述べている。
予想外に好ましいことはとってもうれしいけど、予想外に好ましくないことは怒りとなる。

期待すること自体は悪くないようにも思うけれど、期待するとそれが外れると怒りに変換されてしまう。
だからはじめから期待しないのが賢いってことになるんかなあ。
でもちょっとくらいは期待したいね。

自分にも期待したい。

すべてをあるがままに受け入れることができるようになりたいものだが、それは凡人には難しい。
まずはうまく感情をコントロールして、怒りをやり過ごせるように。
自分がそうなれるように。

自分に期待して、自分で期待を裏切って、自分に怒ってしまわないようにしないと。

自分に期待するのもやめとこかな。
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by omori-sh | 2009-02-26 21:44 | idea

夜中の雨

昨日夜になってから降り出した雨は本降りになって、子どもたちが眠ってから雨音が大きくなった。
梅雨に入ってからあんまり降ってなかったから、ようやくという感じ。
それが朝になったらすっかり上がって朝日が差し込む。

またまた雨上がりのさわやかな朝。
梅雨に入って清々しい日が多い。

夜中だけに雨が降るというのが先月から続いている。
とても助かる降りかたで、庭の植物たちにとって、そして水やりをするぼくらにとってこの上ない。

昼間の日差しは夏を感じさせる強さで、もうすぐ夏がやってくることをあらためて思い知った。
今年の夏も暑くなるのか。

同じ雨でも地震の被災地では厄介な雨になり、夏の暑さもつらいだろう。
今回の東北地方の地震は都市部じゃなかったから被害者数こそ少ないけれど、新聞に掲載されてる土石流の様子を見るとたいへんな規模だ。
夜中の雨は被災者にとって不安極まりないはず。

どうしても自分さえよければいいと考えて、困っている人のことがわからなくなる。
被災した人にとったら、清々しいなんてことを感じる暇はないんだろうな。

何となくわかるような気もするけれど、判断基準は今現在置かれている自分でしかない。
それっぽっちの人間なんだな、ぼくなんて。

自分自分って、そんなんばっかりだ。
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by omori-sh | 2008-06-16 20:39 | idea

隣の芝は青い

最近ちょっとお疲れ気味のomori-hiさん。
昨日もいろいろ思うことがあったようで、若かりし頃を振り返り
そんな彼女にちょっといい言葉を見かけた。

隣の芝は青く見えるもの。
人は往々にして、いまいる環境への感謝を忘れ、不平、不満を並べ立ててしまいがちです。
そして、もっとよい条件を求めてさらに深い迷路に迷い込んでしまいます。

いまの仕事は自分には向いていない。
いまの環境では自分の力を発揮できない。
そう考える前に、頭を切り換えて、自分がいま、どれだけ恵まれているかに心を向けてみる。
いまいる環境を最大限に生かすことを考えてみる。
そこから、新たな道が開けてくるのではないでしょうか。


うちの芝生は青いのか。
隣の芝生ってどこなのか。

求めるから、迷う。
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by omori-sh | 2008-05-02 20:39 | idea

いつの頃からか

いつからなのかわからないけれど、事件が起こったとき、自分を加害者に置き換えて考えるというクセがついてしまっている。
人の立場に立って考えよう、と意識することは大切だとは思うけれど、これは自分がいつ加害者になるかもしれないと潜在的に感じているからかもしれない。

2005年のJR列車事故のときもそうだった。
ぼくは真っ先に運転士のことを考えた。
レバーを握ったまま、状況説明をすることなしに死んだ運転士の立場に自分がなったら、と。

昨日の判決で誰もが「その刑は軽い」と思ったであろう福岡の飲酒運転事故でもそうだ。
車を運転する以上事故を起こす可能性はゼロではない。
いつ自分が事故を起こすかわからない。
そのために保険にも入っている。

ビール一杯だけだから、くらいでハンドルを握った経験もないわけではない。
一昔前はそういう人はたくさんいた(いまもいるだろう)。

ひどい事故が起こったあとは、自分はそういう事故を起こさないように、と各自が自分に言い聞かせるしかない。
それだけなんだと思うけれど、ついもし自分が事故を起こしてしまった本人なら、というところまで考えてしまう。
もちろんそのあとで被害者だったら、ということも思い浮かべるけど。

3年前も自分があの列車に乗っていたら、とか、家族が乗っていたら、とか。
福岡の事故でも自分が子どもたちを失ってたなら、と。

どっちかというと被害者になるほうが確率としては高いのかもしれないけれど、加害者の自分のほうがリアルに感じてしまう。

ぼくが悪い人だからってことかもしれない。

つい悪いことをしてしまう人間だから。

歯医者のくせに甘いもの好きだし歯みがきせずに眠ってしまうし…
(これ以上の悪いことは公表できない…)

いつの頃からかなあ、自分が悪い人やと思うようになったのは。
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by omori-sh | 2008-01-09 22:36 | idea

罪の重さ

福岡地裁の判決が話題になっている。
飲酒運転で追突事故を起こし3児の命を奪った被告に対する判決が懲役7年6月。
その罰があまりに軽いと。

世の中は不公平だ。

不公平だから、ちょっとでも公平になるようにとルールが定められる。
でもそう簡単にはさまざまな出来事にすべて公平性を保てるわけではない。

大きな罪を犯してしまったんだから重い罰が与えられるべき、というのは確かにその通りだと思う。
被害者の感情からすれば少しでも重い罪を、となるのも当然だ。
もし自分が被害者の立場だったら憎くて憎くて許してなるものか、と発狂し、自分を見失ってしまったかもしれない。

でも、被告の罰が重くなったとしても失われた命は戻ってこない。

罰が軽かったら罪の意識が薄れ、再発しやすいから、今後のためにも重い罪を、というのもいえるだろう。
その点については飲酒運転に対する罰則強化がすでに法施行されている。
明らかに福岡での事件がきっかけとなった。

言い渡した裁判長だっていろいろな考えがよぎったに違いない。
下した判決に対する被害者やマスコミの反応、世間の反応は予想されていただろう。
それでも守るべきもののために判断が下されたんだと思う。

被害者は本当に気の毒だ。

これから被告が背負って歩く人生もまた気の毒だ。

本当に罪と罰の天秤が釣り合っていないのかどうか、ぼくにはよくわからない。
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by omori-sh | 2008-01-09 07:00 | idea

呪縛から解き放たれよう

自分はこうじゃなくちゃいけない、と決めつけ過ぎたり、他人のことを理解しようとし過ぎるとしんどくなる。
もちろんこんな風になりたい、と夢を抱くのは必要なことで、目標に向かって突き進むというのはすばらしいことだと思う。
でも、度を過ぎるとどうしてもがんじがらめになってしまう。

屈強な精神の持ち主ならそれでも何とか乗り越えてやっていけるかもしれないけれども、誰しもがそうであるわけではない。

ぼくみたいな庶民レベルでは難しい。

妥協かもしれないけれども、自分で自分を縛り付けている妄想から解き放つことができたらそこにはまた違った自分の世界がある、と信じている。

ぼく自身、勝手にそう信じているだけで、自分がその域に達しているわけではなく、まだまだ自分で自分を縛り付けていると思う。

そこにはいわゆる見栄であったり、いい意味でのプライドであったりというものが存在しているんだろう。

「おれは○○じゃなきゃいけない」をうまいこと保ちながら自由に生きる、というのが理想だ。
縛りながらも縛られていないという矛盾した状態ということになるけれど。

「おれはこうありたい」と思いつつ、ちっちゃなことは気にしない。
他人に対して思うようにいかないことを嘆くのはやめる。

すべてを捨て去るのは困難だけれど、少しは要領というものがあるんだなあと気づきはじめた。
それが正しいのか、間違っているのかわからないけれど、少なくとも自分にとってはそうだと思えるようになった。

人は人と人の間で生きているので、人とどう関わるかだ。
相手の立場に立って考えることは大事だけれども他人のことは本質的にはわからないと心得るべきだと思う。
人のことがわかるなんて何てあつかましいことか。

そんな中で人とつき合って生きていく必要がある。
避けられることは避ければいいけれど、すべてを避けるわけにいかない。

そこで、「わからんことはあまり深く考えないことがいいんじゃない」というのが今のぼくの結論だ。
そして他人に過度の干渉はしない。

「よーわからん」と悩む妻にそんな話をした。
日々いろんな患者さんと接していて、彼女なりに悩むことがあるようだ。
今朝来られた方についても「どう接していいかわからない」と毎回思うらしい。
他にも近所でたまに見かけるおじさんが患者として来て下さったけれど、これまたおもしろい方で、予想外の方だった。

いろんな人がいるよねえ、と笑いながら話していればよい場合が多い。

修復不可能な人間関係だってあって当然で、それをいつまでも悔やんでいても仕方ない。
恨み辛みがあったとしても、テキトーに流しておけばいいことが多い。
昨今世間を賑わしている事件を見ていてもそう思う。
あまりに執着しすぎて惨事につながっている。

ぼく自身を振り返っても人間関係でつまずいたことがあるからそう思う。

のほほんとお気楽に暮らすにもテクニックが必要だ。
そのための第一歩、まずは自分で自分にかけた呪縛を解き放とう。

おそらくその先に違った自分がいる。

たぶんその自分はイキイキしている。
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by omori-sh | 2007-11-28 22:50 | idea

ちりもつもれば

昨日も些細なことがうれしいと思った一日だったが、ここのところ、ぼくはそんなことをよく考えている。
いつも何かうれしいなあと思えるようなことを探している。
半ば無理矢理こじつけているときもある。

今まであまり目を向けていなかったところに目を向けて、ちょっとしたことに価値を見いだす。
習慣的にそういうふうにしていれば、自ずと自分の価値観にも変化が生じてきた気がする。

また、わずかな喜びでもそれが積み重なると気分がよくなる。
気分がよくなると余裕が生まれるからイライラが減る。
ちょっとした失敗にもおおらかになれる。

たいへんに地味なことなんだけれども、最近それがいい方向に向かっている実感がある。

日常の、何気ないところに小さなうれしいはいっぱいあるもので、質素に暮らしていながら存分に味わえるものだということがようやくわかりつつある。

いつの間に、上ばっかり見るようになっていたんだろう。

うれしいちりが足元にたくさんあるぞ、きっとまだまだあるぞ。
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by omori-sh | 2007-11-27 06:57 | idea

責任とやりがいと報酬とジェネレーションギャップ

2週間ぶりの海。
carlは11月の海でもガンガン泳ぐ。
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犬は家族の一員なので、生活の中で犬の存在というものは大きい。
carlがぼくらの家で暮らせていい人生(犬生?)だなとcarl自身はもとより家族としてぼくらが思えるといいなあと考えている。
犬の気持ちがわかるなどとぼくには言えないけれど、海に来るときっとcarlはうれしいんだろうということは伝わる。

これは犬に限らず、一緒に暮らす家族みんなに言える。
うちの子どもたちや妻がこの家で暮らせてよかったなあと実感できる瞬間を積み重ねていきたいという気持ちは大切だと思う。
これがぼくの責任かどうかはよくわからないけれど、日々の家庭生活の中でぼくが感じるやりがいだ。

carlと散歩をしていて、糞の始末をすることは飼い主であるぼくの責任だ。
でも、carlをかわいがることは責任かというと必ずしもそうではないような気もする。
こうしてcarlを海に連れて行くことに責任感を感じないかというとゼロではないけど責任とは違う。
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家族に対しても親としての責任、夫としての責任、子としての責任があるだろうけれど、あまり明確ではない。
家族においてはこのあいまいさがあって当然で、人によって、考え方によってずいぶん異なるだろう。
「責任で愛してもらいたくない」と聞いたこともある。
感情には責任は生じないが行為には責任が生じるということになるかな。

いずれにしても家庭生活においてはみんなが楽しく暮らせたらいいなあというきわめていい加減な考え方で日々過ごしている。
実を言うとそのあたりはとってもぼくは無責任で、それでいいよなと思っている。
家族に甘えている。
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だからcarlのことほったらかしで長い時間留守番させていることもあるし、海にだって毎週連れてきているわけじゃない。
日々の散歩も排泄のためだけのようになっている時が多い。

それでもいまこうしているときもcarlはぼくの足元でごろんとしてしている。
ぼくのことをもっとも恐れ、悪いことをするとぼくの顔色を伺うけれど、ちゃんとそばに寄ってきてくれるのだ。
かわいいやつだ。


社会においては、違う。

昨日久しぶりに学生時代の先輩kskさんと会って話した。
大学時代のバレー同好会の先輩で、職業はまったく違う。
最近のぼくは同業者の集まりとは距離を置きつつあって、他職種の方とのコミュニケーションを好む傾向にある。
今のぼくにはそのほうがいい刺激になっている。

40にもなってくると、職場において担う責任が重くなる。
責任を負うとはどういうことなのか。

「夜中でもいつ連絡が入ってくるかわからないというのは精神的にきついなあ」
現場の責任者であるkskさんの本音。
責任者ってなってみないと実感できない。

「責任でお金もらっているわけやからなあ」

実感のこもった言葉。
責任を負うということはしんどいことだから、しんどいことに対する評価があり、報酬がある。
同じ作業をしても、責任を負う立場の人と、そうでない立場の人がある。
行為は同じ、むしろ責任のない人のほうがうまくその行為をすることができたとしても、責任の所在は別だ。

若いときはつい、「オレのほうがうまいのに、なんでこんな安い給料で働かされなあかんねん」ということを思ってしまう。
責任を実感できていない。
責任がないことに対する自覚はあるんだけど。
「うまくいかなくてもオレの責任じゃないし」とはしっかりわかっている。

いまぼくは「責任とやりがいはセットだ」と思っている。
やりがいのある仕事は責任を伴うものだ。
そして責任に応じた報酬が得られる。

資格の有無というのはわかりやすい。
資格手当というのがあるけれど、有する資格を生かした仕事をする場合、給料に反映されることになる。
やっている業務は同じでも、資格の有無で決まる。
資格には責任が生じる(あくまでもそれを生かした業務をし、報酬を得る場合)。

責任をやりがいと感じることができるかどうかがポイント。
もちろんそこに報酬の存在があって。

報酬がなくても責任を感じ、それをやりがいとする場面もあるだろう。
ボランティア活動などはそうだ。

いわゆる仕事は責任と報酬が釣り合っていて、やりがいはその立場の人が感じるもの。
ならばやりがいを感じなければ損だと思う。
だってやりがいを感じることができたら精神衛生上とてもよい。

嫌な仕事、きつい仕事ほど給料はいい、という面は確かだけれど、そこにやりがいがうまく乗っかれば仕事が楽しくなるはず。
そこがマネジメント。

そして、、、ここで立ちはだかるのがジェネレーションギャップ。

「オレらが入ったとき、今の50代の人からはそう思われていたんかもしれへんけどなあ…」と苦笑するkskさんの気持ち、よくわかる。
まず間違いなく10年ほど前のぼくは上の人から見たら生意気なヤツだったに違いない。
そして上の人からしたら手を焼いたことだろう。
そのとき上の人にかけた迷惑などこれっぽちもわからずにいた。

迷惑の中でももっともしてはいけない「プライドを傷つける」ということをしてしまっていたことだろう。

インターネットやメールの普及はプライドの傷つけ合いを助長してしまうという側面があるように思う。
匿名性や直接会って話さずにすむことでついきつい言葉を送ってしまう。
何気なく書いた言葉がひどく相手を傷つける。

比較的経済的に恵まれて、守られて、少々甘やかされて育ってしまって傷つきやすい上に傷つけ合うわけだから自分を保つことは難しいだろう。
場合によったら傷つけ合いに慣れない上の世代のほうが若い人から傷つけられているということもあるだろう。

プライドを傷つけるのは何も誹謗中傷だけではない。
嫉妬や羨望は恨みへと変化する。
避けられない部分もあるだろう。

ただ若いときほどどうしても図に乗ってしまいがちだ。

若い人を見て、「オレも若いときはこんなだったんかな」と思うということはそれだけ自分が年をとって、責任ある立場になったということにほかならない。
そしておそらく誰しもが通る道なんじゃないかな。

時代が変化する限り起こることだし、年とともにものの見方考え方は変わる。

それにしても、クレーマーの増加が気がかりだ。
「他人に厳しく、自分に甘い」というのは誰しもそうなのかもしれないけれど、世知辛い。

相手に責任を問う際の言動がきつかったり責任転嫁も目に余るときがある。

客の立場のとき、やけにえらそうになっている人が増えている。
駅員に八つ当たりする人が増えている。
医療機関でも「オレさまは患者さまだ」となっている人が増えている。

そういう世の中で暮らしていると、影響をうけやすい若者はどんどんそういう傾向に向かう気がする。

これは若者の責任ではなく、社会の責任だ。

そういう時代に、そういう社会でぼくらは暮らしている。

今後経営者としてジェネレーションギャップに対処していかなくちゃならない場面もあるだろう。
自分のマネジメント力がますます問われるようになる。
そこはぼくの責任でなんとかやらねば。

それをやりがいと感じることができるかがポイントで、ぼくの報酬へとつながる。




昨日kskさんと話して感じたことを振り返ってみた。
ぼくが自分の歯科医院のスタッフ管理をどうやっているか、という話からはじまったkskさんとの会話。

「開業してからスタッフ全員無遅刻無欠席です」というのはぼくの歯科医院の誇りだ。
スタッフのおかげだ。
決してぼくが何か特別なことをやっているわけではない。
むしろその逆だ。

無理に士気を高めることをせず、干渉せず、すべて任せているだけ。
それでがんばってくれるスタッフに恵まれている現状に、ぼくは甘えている。

小さなことは気にしない。
クラクションはならさない。
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by omori-sh | 2007-11-11 10:19 | idea

最近の事件

神戸で17歳の高校生がいじめを苦に自殺した。
京都で16歳の少女が父親の首を切って殺害した。

特に神戸の事件は地元ということもあり、馴染みのある高校なので驚いた。
仲間をいじめ、金を要求し、自殺に追いやるとは。

いずれの事件も「ごく普通の問題のある家庭」で育った少年少女たちが起こしてしまったんだと思う。
「まさかあの子がそんなことを…」と周囲から見えるような。

こういう事件が起こってしまうから、道徳の教育化という話になったんだろう。
道徳が教科化されたら「道徳の成績」という話になっておかしくなるだろうから、教科化が見送られたのは当然かなと思うけれど、何か対策は必要な気がする。

マンガやゲーム、インターネットの影響があるのは明らかだけど、いくつかの要因が重なると、ごく普通の少年少女がそこまでの事件を起こしてしまうということが恐ろしい。

いじめにあう子どもが金を要求され何十万円もどうやって工面できるのかがよくわからない。
親が子どものサインを見逃したか見て見ぬふりをしてしまったか。
親もそうせざるを得ない理由があったのかもしれない。

京都の事件も家庭がもう少しうまくいっていたら起こらなかったはずである。

国策レベルで取り組まなければならないこともあるだろうし、各家庭で取り組まなければならないこともあると思う。
国が何とかしてくれるだろうというのは大きな間違いだ。
そしてその逆にすべてが家庭の責任というわけでもないだろう。

世間の風潮がこんなだから、こういう事件が起こっても、だれももう不思議がらなくなっている。
ぼく自身もそうだ。
驚いたけれど、「まあそんなことは起こるだろうな」と思ってしまった。

こういう事件はある意味人間の本性を示している。
欲望をおさえられなくなった結果にほかならないわけで、行き着く果てだ。
少年少女がブレーキをかけられないのも無理はない。
人間はそうやって過ちを犯し続ける。
いわゆる普通の人がそうなる。

普通の人が気をつけないといけない。
ぼくも気をつけようと思う。
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by omori-sh | 2007-09-20 17:55 | idea