とがったところをまるめる
「17歳の頃」では、男性の方たちから「あの頃は飢えていた」というコメントをいただきましたが、まさしくそれはエネルギーが有り余っていたことにほかならないですね。
そして、ぼくより3つ年下の理系男さんから「ちょっとは丸くなったかな」という言葉を受けとめて、つい最近感じて書き留めていた文を載せる気になりました。
たった今世間は選挙一色ということもあって、政治のことももっとちゃんと考えて自分の意見を持たないとなあ、なんて思うわけです。
そしてそれをいっそう強く感じさせてくれたのも年下の理系男氏。
最近妻のブログにもコメントを残してくれるようになり、妻も喜んでます。
ぼくのブログライフにおけるキーマンです、彼。
それはさておき、近頃、人生の先輩の方を見ていてぼくが感じること、ちょっと書いてみました。
とがったところをまるめる
若い頃、とがっていたが、年とともにまるくなる、という言葉を耳にすることがあります。
「おれも少しはまるくなってきたなあ」なんて自分で評する人も多いですね、でも、それが果たして一般的なことなのか、ちょっと疑問です。
ぼくは年をとるとまるくなるとか気が長くなるとかいうのはごく一部の人だけ、あるいはちょっと前の時代の人にあてはまるんじゃないかなあって思ってます。
むしろ、若い頃とがっていなかった人は、まるくなるどころか、かえって気が短くなっていくような印象すらあります。
だから、若い頃はとがってるくらいのほうがいいかもしれないなあって思います。
どうしてそんな話をするかというと、自分自身がもっととがっててもよかったかな、と思うからです。つまり、二十代より三十代のほうがイライラしやすくなった気がするわけですよ。
それはなんでかなあと考えると、「謙虚さを忘れていっている」ということに違いないですね。
「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」って言うじゃないですか、その逆なんです。三十代って、仕事ができるようになってきて、自信なんかがついてくる頃なんですね、だいたい。そんなとき、謙虚さを置いてきちゃうんですね、油断してると。
誰かが気をつけろよ、気をつけろよ、って耳元でささやいてくれてたらいいんですけどね、なかなかそういうのは難しいみたいですね。
どちらかといえばちょっとちやほやされちゃって、先輩に追いついてしまったりすると、先輩のほうも遠慮しちゃってね。
ただでさえ偉くもないのにセンセイ、センセイって呼ばれて。これはどうしても麻痺してしまいますね、「センセイ」って呼ばれるのは。
ペーペーの何にもできないうちからセンセイって呼ばれるんだから、潜在意識の中ではもう立派な先生になってしまうと思います。口では「まだまだ自分は未熟者で」とは言っても、潜在意識の中では、「オレはセンセイだ」というのがあるんです。
それは避けられないことだと本人たちも、そしてまわりの人たちもあきらめといたほうがいいですね。そういうもんなんだと思って下さい。たぶん損しないですから。
センセイと呼ばれる人もかわいそうなんだって。裸の王様みたいになって、つらい状況にいるセンセイ、実はたくさんいますからね。
そういうセンセイは世間を知らない、つまり外の空気にあんまり触れていないんだと思います。
さっきぼくは二十代より三十代のほうがイライラしやすくなった気がするといいましたが、外の世界では小さなことでイライラしてる余裕なんてないはずなんです。
イライラしていたら冷ややかな目で見られますから。イライラしないためにも、謙虚でなくちゃいけない。
そして、自分の意見が誰かの意見と違ったときはちゃんと同じ高さで議論する習慣をつけておいたほうがいいですね。
議論の中で熱くなることはイライラとは違います。そういうエネルギーは、溜め込まずに発散しといたほうがいいと思うんですね。だから、もっととがってていいんじゃないかと。
喧嘩したらいい。喧嘩というと語弊があります、意見交換です。コミュニケーションです。年配の人たち、組織を動かしている人たちにちゃんと意見を述べたらいいと思うんです。
とがっておくというのはそういうことですね。エネルギーを外に向けて出しといたほうがいい。これはいまぼくは35歳ですが、二十代、三十代のうちにそういうことができるようになっといたほうがいいなあと思って、今のぼく、そしてこれまでのぼくはまだまだエネルギーの放出が不十分かなあと実感しているんです。
もちろん人によりけりだと思いますが、若いうちに信念のようなものを持って、それをぶつける経験をしておくと、年取ってからのエネルギーの流れがよくなるような気がするんですね。
そういうのを上手にやっている人がわりあい少ないように見受けるんです。
だからかどうかわかりませんが、どんどん内弁慶になってしまって、苦しくなってしまうんではないかって。
外向きにうまくとがってないと、内に向いてとがってしまう。DVってのはそういうのが最もゆがんだ形で現れてしまったもののような気がします。
年をとってまるくなるのは外向きのとがり方で、内向きのとがり方は年とともに煮詰まっていくような気がするんですよ。
年取って身近な人にガミガミやってる姿は、見ててつらいですね。
老人ホームのお年寄りにもいますね、そういう人が呆けちゃうと、大変です。こわいもん。それで、いい介護が受けにくくなります。介護するほうも人間ですから。ガミガミいう人からは離れますよ。
だからといって、自分を抑えて抑えて、一生懸命いい人を演じようとしてうまくいかなくて、うつになってしまうのもつらいですね。
いい人過ぎるのも考えものなんですよね。だからほどほどに発散はさせておいたほうがいいとぼくは思います。
発散の仕方が問題なんでしょうね。うまいこと発散させられたら、善循環になってどんどんよくなる。よくないほうに出してしまうと悪循環で、泥沼に入って抜けられなくなるんですね。
それでも抜け出すことは可能だと思います。というか可能だと信じています。信じることは大事です。信じれば、何かが変わるような気がします。
「わかっちゃいるけど、できないんだよね」だったら進まないということは誰でもわかっています。行動変容が必要不可欠なんです。行動変容のためには、信じることだと思います。一歩を踏み出せば、自分は変われるんだ、って自分を信じること。
若いときに自分の信じることを貫くためにとがったことをやる経験が、ここでも生きるんじゃないかと思います。
だから、若いうちはとがっておいて、年を取ったらまるめられるようにしておきたいですね。まるめるためにもとがっておくんです。
いい具合に「出る杭」になれたらいいなあと思います。
by omori-sh | 2005-08-31 22:20 | idea