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老婆心

以前いただいたコメントから「老婆心」という言葉について考えたことがあった。
そのとき、老婆心っていわゆるお節介だとか余計なお世話という意味でしか理解していなかったぼくは、いただいたコメントの内容がわからないままだった。
それがここにきて「ああ、そうだったのか」と合点がいった。

広大寺「暮らしの中の仏教語」というサイトにあった説明を読んでなーるほどと思った。
その内容は次のようなもの。

皆さまは姥捨山の物語をご存知ですね。
昔々齢をとりすぎて働けなくなった老人を捨てる村がありました。
ある日その村の一人の男が、齢老いた母を背負って山へ捨てにゆく途中のこと、背中で時々枝を折る音がするではありませんか。
「さては母が、捨てられたあと一人で山を降りるための目印を作っているな」男はそう思いましたが、知らん顔でようやく山奥にたどりつき、お母さんにさよならを告げました。
その時お母さんはこう言ったのです。
「いま、山を登ってくる時、お前が帰り道を間違えないよう枝を折って目印をつけておいたよ。それを頼りに気をつけて里へ帰りなさい」

自分が捨てられようとしながら、なお我が子のために道しるべを残してやろうとする親心に男はいたく感動し、親不幸を詫びるとともに再び老婆を背負って山を降りるのでありました。
その後男が孝行したことはいうまでもありません。

自分のことは一切考えに入れずに只相手を思いやる-これを老婆心といいます。
姥捨山の元の話は雑宝蔵経(ざっぽうぞう)の棄老国(きろうこく)の話であり、また老婆心は中国や日本の禅書によく出てくる言葉です。
「禅の師匠は一見厳しいだけのように見えるが、老婆が子や孫をいつくしむような深い愛情に裏づけられているのだ」ということでしょうか。
老婆心血滴々の仏法を正伝するのが禅宗です。

自分を目いっぱいに考えに入れ、自分の面子と損得で子を育てている教育ママさんたち、そんなことでは本当に姥捨山においてこられます。
老婆心切、これこそ後継者作りの根本精神であることを、それこそ老婆心までに申し添えておきます。


そう、禅の言葉だったのだ。
コメントをくれたkiyoさんはヨガの先生から教わったとのこと。
禅とヨガは通じるところがあるからそこでもつながった。

ヨガの先生は禅語を用いて子を叱る母の心もちを教えて下さったのに違いない。
自分のことは一切考えずにただ相手を思いやる気持ちで子どもに接することで「イライラして怒る」とならないように。
そういうことだったんじゃないかな。

ほかではこんな説明も。
ほっとする禅語より。

老婆心(若い人も男の人も、老婆の心になれます)

老婆と呼べるような人がすっかりいなくなりましたね。
今時のおばあちゃんはモダンで美しい。
むしろ刻まれた皺の迫力に欠けて寂しい気さえします。

老婆には懐の深さがあります。
その根源は「老婆心」です。
おばあさんが孫を愛して世話をやくような、先回りした親切心のことです。

相手が誰であろうと真心から涌いてくる親切は、グローバルに発揮されます。
その人が敵であろうと、お腹をすかせていたら、おむすびを与えることのできる親切心。
不安げな道行く人に自然に声をかけてあげたり、いつのまにか草むしりをしていたり、もう相手がいないのに手を合わせて感謝しているあばあちゃんを見かける事があります。
トゲのある社会の隙間をやさしく埋めてくれる存在。
「老婆心」なら社会のキズ口をふさげます。
「老婆心」は若くても男でも持てます。


ぼくにとってはひとつめの説明の方がなるほどと思えたけれど、いずれも達観したおばあさんの本当の親切心ということに違いはない。
自分を勘定に入れていないというところがみそ。
現代のおばあさんにはあまりおられないのだろうか。

禅語でいうところの「老婆心」をもてるようになりたいものであるが、これはまた難しい。

by omori-sh | 2006-11-06 21:19 | idea